『ドラゴン・キングダム』を観た。

チャイナタウンの質屋(老けメイクのジャッキーが店主!)で海賊版功夫DVDを漁るしか能が無い、功夫オタクの・・・・、もといジェイソン君が異世界に旅立ち、ジェッキーとジェットの特訓を受けて(ついでにアジアンな美少女と恋愛したり)、世界を支配する極悪な将軍(中ボスは白髪でサドっ気全開の美女)に立ち向かう。現実世界に戻ったジェイソン君は強くなっていたので、異世界に行く前までやられっ放しだった絵に描いたような不良ドニー・イェン並みの技でシメるのだった。


ゼロの使い魔』という小説がある。どんな話かと言うと、特にこれといって特技があるわけではない平凡な少年が、突然ハルケギニアという異世界に召還されて、魔法使いの美少女ルイズと一緒に修行して一人前の使い魔になる、というもの。『ドラゴン・キングダム』の基本的なストーリーはこれと同じだ。ただし、そこにあるのは魔法ではなく功夫であり、待っていたのはルイズではなくジャッキーとジェット・リーだったという話だ。
日本生まれ日本育ち、日本から出たことも無いという私には、この類の話はアニメやマンガの方が馴染みがあるが、こういうのは世界中で何度も何度も繰り返されている話である。「平凡な少年少女がひょんなことから異世界に迷い込み、そこで冒険や恋愛してそれなりに成長して現実世界に戻ってくる。」このストーリーラインに沿った創作物は物語が娯楽性を求められるようになって以来、どれだけあっただろうか。ただ、それが「平凡な少年少女」から、「現実世界がサッパリな少年少女」に変わったのは、(とりわけ映画の世界においては)恐らく80年代くらいからではなかろうか。原作ファンの抜いてはいけない度肝を抜いた『ネバー・エンディング・ストーリー』を筆頭に、シューティングゲームで高得点を出した少年が宇宙人にスカウトされて宇宙戦争する『スター・ファイター』なんてのもあった。ワックスで車を磨いていたら強くなったという通信教育よりもライトな空手映画『ベストキッド』も、この類に入るのではなかろうか。そうなると、苛められっ子の少年がブルース・リーの亡霊に特訓を受ける『シンデレラ・ボーイ』にトドメを刺す。90年代になってくると、冒険するのは「少年少女」ですらなくなる。『マトリックス』では人類の救世主として戦うことになるのは、ごく平凡なサラリーマンだ。
この類の映画は、今日も世界中で「俺も選ばれし者になれねぇかな。」と、無邪気な選民思想を抱いて眠る推定10億人のボンクラに一時の夢を与えてくれる。そして、『ドラゴン・キングダム』はそんな妄想に完璧に応えてくれる映画だった。素晴らしい。私は映画を見ながら、この時間が永遠に続けばいいと久しぶりに思った。終わらなくてもいい、この映画の世界にずっと浸っていたい―。
だが、一度「夢」を覚えた大人が、劇場で夢を抱く時、そこには哀しみが発生する。自分が「選ばれし者」になることは99%無いであろう事を知っているからだ。この映画は、まだ「ボクだって修行すればオーラとか出せるんだ!」と無邪気に信じていたあの頃に観たかった。そうすれば、クライマックスで「ああ!これで終わってしまう!」などと真剣に嘆くこともなかっただろう。
映画館とは夢を観る場所であり、夢と引き離される場所である―、そんなことを今更ながら思った。

とは言え、この映画に涙した選ばれし者予備軍日本支部の人間たちは、もうちょいしたらアンジェリーナ・ジョリーに招かれて殺し屋組織に入ることになるだろう。絶対に。